<a href="//blog.with2.net/link/?1930729">人気ブログランキングへ</a><a href="//blog.with2.net/link/?1930729">人気ブログランキングへ</a>EUにおける社会保障への取組みは移動労働者の扱いを各国でどうするかを調整するというところから始まっていると言えるでしょう。そうすると戦前のILOの取組みにまでさかのぼることになります。今回は戦前から現在に至るまでのEUの社会保障の歩みについて解説していきましょう。
戦前の社会保障
戦前のILOによる取組みは1919年の「双務主義勧告」を一般規則として採用したところから始まります。しかし、当時の批准国はスペイン、ユーゴスラビア、イタリア、ハンガリー、オランダ、イスラエルのみであり、まともに機能していたとは言えなでしょう。後にポーランドとチェコスロバキアも批准しましたが、ドイツやフランスといった国々が国々がいないあたりからまともに機能していたかも疑わしいと言えます。というのも当時の社会保障は労働条件の1つと考えられており、特別な合意形成の必要性は認められていなかったのです。
戦後からEEC設立まで
そしてWWⅡが終わった後からEEC成立までの間に社会保障は世界平和のために必要不可欠なものとして考えられるようになり始めました。そのための協定には以下の3つのタイプが存在しました。
① 多数国が共通する条約を批准
② 二国間協定
③ 独自の協定を複数国間で結ぶ
そして1949年に欧州評議会が成立し、社会問題委員会が設立されました。しかし、これには強制力がなかったためあまり意味を持ちませんでした。
そしてついに1953年に社会保障に関する暫定欧州合意(The Interim Agreements on Social Security)の締結がなされます。これが欧州における初めての社会保障に関する協定といえるでしょう。
パリ条約とローマ条約
1950年にパリ条約が締結されました。ここでは西ドイツとフランスの関係産業の労働者の移動を支援する条文が盛り込まれました。これはあくまで2国間の物ですが、強制力のある初めての条約といえるでしょう。
1957年にはEECの条文に以下ものが追加されました。
51条「労働者の自由移動を確保するために必要な社会保障の分野での措置を理事会がとる」
特定産業に限らず、域内の労働者の自由を妨げるような障害物を除去するための社会保障の調整を目的とし、あくまで抽象的な記述に留まりますがきちんと明記されています。これがEUという地域における社会保障に関する歴史の第一歩となります。ILOのものも確かに多国間によるものでしたが、当時力を持つ国々が加盟していたことに意味があるといえます。また、EECはEUの前身であり、一つの共同体として社会保障を意識し始めた始まりはこのローマ条約であるといえるでしょう。
EU成立まで
ローマ条約が調印され、EECが誕生したことで社会保障に関しての分野の協力がみられるかと思いましたが、実際は経済成長が優先でした。欧州経済の成長の阻害にならないよう労働者の移動に関しての取り決めがなされた以外の動きはここでは見られません。
そしてECSCとEEC、EURATOMの統合されました。調印されたのは1965年。実際に1967年発行されました。これがECの誕生です。
そして1972年に「社会保障に関する欧州条約(The European Convention on Social Security)」が発表されましたが、調印した国は少なく、あまり期待はされませんでした。
そしてその後2度の石油危機が起こり、ECという共同体構想は停滞していきます。
しかし、1987年「単一欧州議定書」の発効によってにふたたび市場統合に向けての動きが高まり始めます。しかし、社会保障に関する取組みはここでは全く触れられませんでした。
しかし、2年後の1989年に「労働者の基本的社会権に関する共同体憲章」(EC社会憲章)が成立し、社会保護に関しては触れる程度でしたが、行動計画で障がい者対策や高齢者対策について強調される条文が盛り込まれました。しかし、失業者の増加で方針を転換せざるを得なくなるのです。
1993年のEUが成立した年、「ドロール白書」において前回説明したオランダの社会保障政策を参考にした路線に変更されます。すなわち、所得を再分配するのではなく積極的に労働者を増やし、税収を増やして社会保障費を減らしていこうとします。
その根拠としては『社会問題は上層と下層のものの間にあるのではなく、「社会の中に居場所があるもの」と「社会からのけ者にされてしまったもの」の間にある』という考え方です。つまり、社会の中に居場所のない人たちに労働者として居場所を与えることで失業者を減らしていくという方針がこの時にとられました。
そして97年に社会保障政策を始めとするお互いの取り決めに関して強制力を持たせる「公開調整手法」がとられるようになります。この手法加盟国に「年次報告」を義務付け、欧州理事会や閣僚理事会によって審査が行われます。それにより「ピア・プレッシャー」を与えることで目標を達成させなければという気持ちをあおっていくのです。
そして1999年には雇用の問題は失業率ではなく、就業率になり始めていました。オランダの社会保障政策を解説したときに述べましたが、この政策ではあくまで正社員として社会への参加を促すものではありません。パートでも非正規雇用でも働くということが重要であり、どのような形であっても社会参加をさせることが促されました。その結果、企業にとって都合のいい非正規雇用やパートというものの立場は低くなり、労働者より経営者の立場が強い構図が出来上がっていったのです。
今回はここまでです。次回は『リスボン条約』から『欧州2020戦略』までの話をしていきたいと思います。
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